【日記】死にたい。身体障害者の苦悩、それでも生きる

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これは知人に書いてもらった日記だ。

 

私は大阪で生まれ、小学校まで大阪で過ごしました。

 

大阪の小学校では、積極的に学級委員などをしていたため、友達は多かったと思います。

 

しかし、両親の仕事の都合で転校をしなければならなくなりました。

 

私がその事を聞かされたのは転校する1ヶ月位前の事で、それを知ってからの1ヶ月間は、学校に行くのが辛くて辛くてたまりませんでした。

 

担任の先生は私が引っ越す事を知っていましたが、それ以外の人達、特に仲の良かった友人達に自分から直接話をするというのは、何故だかとても言い辛く感じてしまい、出来ませんでした。

 

毎日学校に行っては、「今日は、転校の話をみんなにしよう」と思いながら、結局実行に移す事は出来ず、とうとう転校当日になってしまいました。

 

担任の先生が朝礼で皆に私の事を告げると、「なんでゆうてくれんの!(何故言ってくれないの)」と皆から泣きながら言われたのを今でも鮮明に思い出します。

 

私も「なぜ言わなかったのだろう」と思っても未だに分からないのですが、多分、転校するまでの間、皆には「転校する特別な人」として色眼鏡を掛けたまま付き合って欲しくなかったのかもしれません。

 

その日の内にフェリーに乗って引っ越す事になりましたが、家族だけになった途端、ずっと張り詰めていたものが「パン!」と破裂した様に、フェリー上で眠るまで泣きじゃくりました。

 

明くる日の朝は、目が開かない位に瞼が腫れてしまったのですが、その時の写真が今でも記念日の様にアルバムに貼ってあります。

 

そして、私は九州福岡の学校に転校しました。

 

目次

【死にたい。身体障害者の苦悩】福岡の小学校へ転校 

3年生の途中で編入したので、中々友達が出来ず、又、関西弁で話す事を皆からは笑われていました。

 

そんな中でも、運動は得意でしたので、体育の時間は楽しく過ごせていた気がします。

 

段々と皆も私に慣れてきてくれ、友達も大勢出来ました。

 

しかし、大阪の方が都会なのでしょうか?大阪の友達は、4.5年生ともなると、色恋話をしたりしていましたので、田舎の小学校で過ごしていた私の話とは、雲泥の差があり、徐々に音信不通になってしまいました。

 

それでも、当時の私は福岡での学校生活に満足していましたので、全く気にも留めていませんでした。

 

何だか今考えると、もったいなく感じてしまいますね。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】福岡での中学時代〜就職まで

そして、福岡で学生時代を過ごした私は、中学・高校時代にエレクトーンに夢中になりました。

 

大学は音楽大学に行くか、教員を目指して教育大学に行くか、相当に迷いましたが、そんな時、中学時代、生徒会の役員をしていた頃に学んだ一つの大切な事を思い出しました。

 

私は、中学時代に吹奏楽部の副部長をしていたのですが、3年生の時に吹奏楽部の1年後輩の女子生徒が事故で亡くなるという痛ましい出来事がありました。

 

生徒会と吹奏楽部の代表を兼ねて、私もお葬式に参列させて頂きました。

 

「昨日まで、あんなに元気だったのに・・・。」バイク事故で、彼女の体は無くなってしまいましたが、顔だけは綺麗に残っていたそうです。

 

「とても可愛い顔の女の子」でした。そうして一瞬の出来事で、彼女はたった13年の短い生涯を終わらせたのです。

 

その時私は、命の大切さを痛感しました。

 

そして、散々迷った挙句、私に何が出来るのかは分かりませんでしたが、食に関する学校に行く事にしました。

 

そして、栄養士の勉強をして、一般企業の食に関する仕事に就きました。

 

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】懐かしの甲子園球場

食に関する事で、命の役に立てればという想いからでした。

 

その時に、大阪にいる従姉が、私を大阪に招いてくれました。

 

約15年ぶりの大阪でした。

 

昔、私が幼い頃、両親がプロ野球の「阪神vs巨人戦」を見る為によく連れて行ってくれた「甲子園球場」。

 

私が大阪を訪れた時は丁度、夏の高校野球選手権大会が開催されていました。

 

この時、どこの試合を見たかは覚えていませんが、甲子園球場名物の「かちわり」と、ギラギラした太陽が思い出に残っています。

 

大阪の「阪神甲子園球場」は伝統のある球場で、皆さん、一度はご覧になった事があると思いますが、つたの葉が見所です。

 

当時は、福岡にもプロ野球の球団が関西からやってきたばかりで、毎日のように会社帰りに、いわゆる「応援グッズ」を持って、応援しに行っていた位野球が好きだった私にとっては、「阪神甲子園球場」足を踏み入れた途端、懐かしい想い出がぶわっと頭の中に思い浮かびました。

 

そして、今度は両親と一緒に「大阪に来よう。」と誓い、大阪の街を後にしました。

 

そうして、1週間の有給休暇と夏のお盆休みを合わせた、長いようで短かった休みは終わりを告げました。

 

私の人生においての、大切な大阪時代を思い出す良いひと時をプレゼントしてくれた従姉には、本当に感謝しています。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】目が覚めたら身体障害者に 

福岡に帰って来てからは、またいつも通りの日常生活に戻り、仕事が終わってからは、野球観戦に行くという日々を過ごしていました。

 

しかし、ある時から何故か喘息を患うようになりました。

 

忘れもしない、お正月休みに婚約者と一緒に初詣に行く予定の朝の事でした。

 

痰が気道に詰まり、呼吸困難になってしまった私は、20分間心停止という状態になってしまったのです。

 

それからというもの、私が目を覚ました時には、冬だった季節が春に変わり、窓の外には桜の花が咲いていました。

 

自分で立ち上がろうとしても、病院のベットから立ち上がれず、何度もベットから転げ落ちたのを覚えています。

 

どうしてこの病気が私に振りかかったのか?結婚して、幸せな家庭を持って・・・

 

それが、普通の事だと思っていた私には受け入れられない現実でした。

 

「もう。こんなことなら、あの時死んだ方がましだった・・・!」

 

皆が当たり前だと思っている日常。

 

何の疑問も抱かずに過ごしている幸せな日々。

 

その中で一人取り残されてしまったようなあの絶望感。

 

今でも時折思い出しては、悲しくて悲しくて涙が出てきます。

 

しかし、私を診て下さった病院には感謝しています。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】リハビリを始める 

主治医の先生が機転を利かせて下さり、「院内を自由に車椅子で歩かせてあげて下さい。その代わり、見かけたら一言声をかけてあげて下さい。」

 

と自由に過ごす事を許して下さったのです。

 

先生からは「あなたは病室に行ってもいつもいないから、困った患者ですね~。」とよく言われていましたが、リハビリ室には、年齢の近い先生方も多かった事もあり、居心地よく感じていた私は、いつも主にリハビリ室で過ごしていました。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】やっぱり生きたい 

そして、病気を治そうと思ったのもそれからです。

 

それまでの健康だった私は、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士という職業がある事さえ知りませんでしたが、本当にたくさんの方に助けて頂き、前向きに病気と向き合おうと思うようになりました。

 

私が患っていた病気は、高圧酸素療法で徐々に回復しましたが、昔のように走ったり、歩いたり、喋ったりする事は出来なくなってしまいました。

 

しかし、喋る事と文字を書く事だけは、リハビリを頑張ったと自負しています。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】婚約破棄 

又、当時進んでいた婚約者との結婚話も、両親が無きものとしました。

 

15年程前に、一度私から電話をした事があるのですが、私の両親から破断の話を聞いていたからでしょう。

 

もしくは、もしかするともう他の方と結婚していたのかもしれません。

 

一言、厳しい口調で、「もうかけてくるな!」と言われ、「あ、もうこれで終わったんだ」と、何故か何の感情も抱く事も無く、涙も出ませんでした。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】新しい挑戦へ 

新しい挑戦が今から始まります。

 

今、私は車椅子に頼って生活していますが、それでも車の運転だけは出来ます。

 

一度、若い頃に免許を取っていたものの、長い入院生活で更新が出来ず・・・。

 

そして1度流れてしまった運転免許取得に再度チャレンジしたい!という私の想いに応える形で、主治医の意見書と免許センターとでO.K.が出たのです。

 

「また、車の運転が出来る!」嬉しさでいっぱいでしたが、自動車学校では、とても厳しい指導を受けました。

 

20代の健康だった時に免許を取った時に比べて、時間もお金も倍かかりました。

 

しかし、車の運転免許を取った事で、今でも昔の友達と応援グッズを持ってプロ野球観戦に行く事が出来るのです。

 

辛い事を乗り越えたからこそ、今の楽しい日々がある。

 

そう考えると、頑張って良かったと心の底から思えます。

 

そんなこんなで、これまでの人生、本当に色々な事がありましたが、今の私には1つの目標があります。

 

それは、両親に大阪の「甲子園球場」への旅行を最後にもう一度プレゼントする事です。

 

そして、あの夏の熱狂を一緒に感じたり、又今度は私の生まれ育った街まで見に行ってみたいのです。

 

私の体の調子もそうですが、両親も大分年老いてきましたので、早い内に行きたいと思っています。

 

【死にたい。身体障害者の苦悩】前向きに生きる 

今でもふと中学時代の後輩の事を思い出しては、さぞかし無念だっただろう・・・と感傷的な気持ちになりますが、それと同時に、当時の彼女が笑っている姿も思い出します。

 

これも何かの縁かもしれません。

 

私は命ある限り、自分の人生を責任を持って全うしたいと思います。

以上。